【漆黒5.55】光の戦士とココアのぬくもり

 夢を見た。第一世界と原初世界とを頻繁に行き来していた頃の夢だ。
 ひび割れた荒野を白い船が走っている。その後部座席には黒髪の少女が座っている。長い髪を強い風にかき乱されながら、巻き上がる砂塵が目に入らないように顔を片腕で庇いながら。気が遠くなるほど遥か先に、しかし確かにある緑豊かな場所を見据えている。無の大地、と名がついたまま、美しい花々の園に生まれ変わった場所だ。
 視線はそのままで、彼女はふと口にした。

 ――あなたでも、挫折って感じたことあるの。

 華やかだが色彩のトーンに静けさのあるメイク。普段は気の強さを隠しもしない彼女だが、その時ばかりは質問の内容が気まずいのか、深紅のリップをのせた唇がもごもごと動いていた。
 ありますよ、数えきれないほど。
 そう答えると、彼女はそうよね、と視線を足元に落とす。

「手が小さくてヤクの乳搾りがまともにできなかったときとか」
「なんて?」

 一瞬でいつもの調子に戻ったガイアの表情を、よく覚えている。

 

 

 エオルゼア全土、ひいては世界中に姿を現した『終末の塔』は、この日も変わらず禍々しくそびえ立っている。
『暁の血盟』一行は、終末の謎を解明するためにシャーレアン本国を目指すこととし、その準備が整う時を待っていた。賢人の面々、特にエーテル学の専門家たちは日々あちらこちらを渡り歩き、研究を深めている。
 その一方で、巷から『光の戦士』『暁の英雄』などと呼ばれるニニシャは少しばかり暇を持て余している。彼女のエーテル学にまつわる知識量はようやく中級者入りするかしないかという塩梅だ。賢人たちの話の内容は、良い時で半分ほどしかわからない。それでも、荷物持ちやら護衛やらを積極的に申し出たのだが、賢人たちは異口同音に「休めるときに休んでおけ」と言い、ニニシャを連れていってはくれなかった。
 光を体内に溜め込み、あわや罪喰いに変貌する寸前までいったことを、皆よほど案じているらしい。
 彼らも彼らで、なかなか魂が肉体に還れず危ういところだったのだ。お互い様であるはずだが、肉体が異形に変化しかけたというショッキングな出来事は、ニニシャが思う以上に、皆の心に影を落としているのかもしれない。
 激戦が近い今、体を鈍らせるわけにはいかない。動いていないと落ち着かない性分でもある。ニニシャは疲労を翌日に残さない程度に、石の家の周辺に転がっている雑事を片付けたり、タタルの雑用を代わりに引き受けたりなどしていたのだが、ついに身近な場所ではやることがなくなってしまった。
 タタルがニニシャ宛ての手紙を持ってきたのは、グリダニアの冒険者ギルドを覗いてみようかと転送魔法を使おうとしたその時だった。

 

 

 手紙はクルザス西部高地に暮らすエレゼン族の女性から届いたものだった。
 竜詩戦争の終結後、邪竜ニーズヘッグの眷属のうち半数ほどはクルザスからドラヴァニアへ退いていった。クルザス西部高地におけるドラゴン族による被害は大幅に減少し、厳しい寒さこそ変わらないものの、エオルゼア各国からの冒険者の流入もあり人の行き来が大幅に増えた。それに従い、ファルコンネストから高地ドラヴァニアへ向かう道が自然と再形成されていった。
 そんな中、手紙の差出人である女性は、放棄されて久しいキャンプ・リバーズミートの跡地に夫とともに入植した。もともとクルザス西部高地の出身で、第七霊災とそれに伴う寒冷化によって皇都に住まいを移すほかなかった夫妻は、故郷に戻り朽ちたキャンプを集落として復活させ、ゆくゆくはドラヴァニアへ旅する人々や、聖フィネア連隊を支援したいと望んでいたのだった。
 ニニシャは竜詩戦争の終結後、傷が癒えてすぐに追憶と追悼の小旅行をはじめた。その旅の果ての地、とある騎士の墓前からイシュガルドへ帰る途中で偶然夫妻と出会い、成り行きで入植の手伝いをすることになった。その話がどこで漏れたのか、竜詩戦争終結の立役者が手伝っているとあっという間に噂になり、夫妻のもとに多くの協力者と少しの入植希望者が訪れたのだった。
 ニニシャは彼の地のような厳しい環境で暮らしていくのは途方もないことだと思っていたが、寒冷化からの五年を過ごし竜詩戦争をも乗り越えたイシュガルドの人々は、彼ら自身が思う以上に頑丈で、暮らしの知恵や過ごしやすい技術をお互いに分け合っていた。ぼろぼろのキャンプが少しずつ村に変わっていく中、ニニシャには壊れて放置されたままのエーテライトがかえって輝いて見えたものだ。そうして、キャンプ・リバーズミートは小さな集落に生まれ変わり、夫人は集落の長となった。
 入植時、寒冷地に強い作物や家畜を片っ端から試していたのは知っているが、それが少しずつ軌道に乗ってきているようだ。冒険者や聖フィネア連隊の面々が代わる代わる訪れ、充実した日々を過ごしていることが、手紙に書かれていた。
 集落を見に来てほしいこと。可能であれば軽作業の手伝いをしてほしいこと。報酬として、少しの金銭と食物、それにヤクのミルクを缶三つ分用意していること。手紙の最後には、そんな依頼内容がまとめられていた。

「行ってきても良いですか? わたしも体を動かしたいですし、ヤク乳のココアが飲みたいので」
「もちろんでっす!」

 いつもより声が弾んだ様子のニニシャの問いに、タタルは両手を上げて笑顔で返した。
 ヤクの乳で作ったミルクティーとココアはニニシャの大好物だ。紅茶の材料であるクルザス茶葉は皮をなめすときの必需品でもある。普段から持ち歩くほか、石の家や宿屋にも常備してある。ココアパウダーは高価であるため、少しずつギルを貯めてはイシュガルドのマーケットに買いに行くのが密かな楽しみだった……のだが、つい先日大量のココアパウダーが匿名で石の家に届けられるという珍事があった。どこの神殿騎士団総長からの贈り物やら、暁の面々にココアパウダーを分配する作業を手伝ってくれたサンクレッドは「やっぱりやっこさん、嘘がつけないやつみたいだな」と笑っていた。

「でも大きな缶三個をニニシャさん一人では無理なのでっす」
「そうですね……二つならなんとかチョコボたちで牽けたと思いますが」
「それもかなり無茶なのでっす……」

 タタルの眉が八の字に寄った。今、石の家の人々はほとんど出払っており、ララフェル族の体躯よりも大きいミルク缶を運べそうな者は、ニニシャの他にいなかった。賢人の皆がいなくとも、こんなときホーリー・ボルダーあたりがいれば、こちらから何も言わずとも、兄弟揃って、ついでにクルトゥネも巻き込んで手伝いを申し出てくれるものだったが。
 冒険者仲間に手を貸してもらおうか。所属するフリーカンパニーにリンクパールで呼びかければ、誰かいるかもしれない。そう思案していると、隣のタタルが「あっ」と声を上げたかと思うと瞬く間に外に走っていってしまった。なにか考えがあるのだろうかと思ってしばし待っていると、やおらに騒がしくなってきた。タタルの叱咤するような強い口調が耳に入り、彼女が誰を連れてきたのか察する。
 タタルがこんな厳しい調子で話しかける人物は、今は一人しか思い当たらない。ほんの少し前に「もう少し一緒に」と願い出たときはあれほど遠慮がちであったはずで、すげなく断られてがっくりと肩を落とす彼女の姿をよく覚えている。事情が変わったのは察するが、いつの間にこうなったのだろう、と最近のニニシャは首を捻るばかりだ。

「クルザス方面にはあまり行きたくないんだが」
「わがまま言わないでくださいでっす!!」

 タタルはエスティニアンの足首にしがみついては引っ張るを繰り返してようやくニニシャのもとにたどり着くと、腰に両手をあててどんと胸を張り「エスティニアンさんを連れてきまっした! ご自由に使ってくださいでっす!」と言い放った。どうやら彼はタタルの依頼で荷物運びに従事しており、今帰還したところらしい。まるで道具であるかのような扱いに閉口する兄弟子の姿が微笑ましく、ニニシャの頬に困ったような笑みが浮かんだ。

 

 

「わざわざ来てくれてありがとね」
「とんでもないです。みなさんが元気そうで安心しました」

 手紙をくれた夫人が快活な様子で礼を述べると、ふわりと白い息が舞った。彼女も周りの人々も、入植のときより明らかに顔色がよくなっていた。故郷に戻れた喜びはここまで人を元気にするのだと感じ、ニニシャの顔も自然とほころぶ。

「英雄さま、パンが焼けたわ。このバターをつけて召し上がって!」
「英雄さま、紅茶もどうぞ。クリームも乗せてみて。濃厚でおいしいのよ」
「ヨーグルトはどう? 英雄さまに食べてほしくって今日のために用意してたの!」

 女性たちが次々と差し入れを持ってきて、やれ私が先だのそっちが譲れだのと押し合いへし合いする。何から手にとろうかと視線が泳ぐニニシャに、夫人は「最近ヤクの乳の出来がいいんだ、どれもとびきり美味しいよ」と言った。様々な家畜を試した結果、この集落の産業はヤクを中心に回転しはじめたそうだ。体が大きく、寒さに強い。今は乳製品を中心としており、将来的には肉製品や毛皮も取り扱う計画らしい。

 押し合って笑い合う女性たちを微笑ましく眺めつつ、自分が立ち上げに少しでも関わった集落の発展を喜ばしく思っていると、あっという間に距離を詰めてきた女性たちにパンも紅茶もヨーグルトも次々と口にねじ込まれる。上品な味に舌鼓を打って、幸福の笑顔を見せてから、おかわりを次々と持ち寄る彼女たちに「少し働いてからまたいただきます」と断りを入れる。えー、と寒さに赤らんだ頬を膨らませる女性たちに一礼して背を向けると席から立ち、畑に向かう。
 真っ白な雪の下で鮮やかな橙色のニンジンがすくすくと育っている。腰を下ろすと、作業用のグローブを装着した手を畑に伸ばし、葉と葉が重なりすぎているところから適度に間引いていった。

「手際がいいな」
「ありがとうございます。植物の手入れは、駆け出しの頃に一通り」

 ふうん、と気のない返事をすると、エスティニアンは小ぶりの木槌を袋に叩き込んだ。ぱちぱち、と火花が弾ける。ファイアシャードと錬金薬を混ぜたものを叩いて反応を起こしてから雪の上に撒く、融雪剤だ。イシュガルドが正式に開国してすぐさま、ウルダハの錬金術師ギルドが送り込んだ技術は、寒さに凍える人々の助けとなり、両国に潤いをもたらした。

「辟易しないのか?」
「……?」
「英雄様英雄様と連呼されてだ」

 ニニシャが質問の意図に首をかしげると同時に、木槌の音がして、また火花が小さく弾けた。
 言葉選びこそ無愛想だが、声のトーンは楽しげだ。あれこれと女たちに構われるニニシャの姿を見て面白がっているようで、口の端が上がっている。
 来る前はなかなかに頭が痛そうにしていたのでほっとする。人手は彼をおいて他になく、依頼を断ることもしたくない、ということでニニシャから同行を願い出た結果、『相棒』からの願いでは断れぬと、ここまでついてきてくれたのだ。
 そんな経緯のため、エスティニアンに嫌な思いをさせていないかと案じていたニニシャは、大いに胸をなでおろした。彼が『暁』に仲間入りしたのは完全に自分たちの都合であるから、できる限り負担をかけたくはない。そう思っているのだが、言葉にはしない。なぜだかわからないが、言葉にすると良くないらしいからだ。
 少し前、石の家で休憩中にそれを口にした際のことだ。タタルに「ニニシャさんはエスティニアンさんを甘やかしすぎでっす!」とむくれられ、アリゼーとサンクレッドにもそうだそうだと同意され、そこまではとりえあず良いのだが、いや良くはないが、茶を運んでいたグ・ラハ・ティアが悲鳴を上げたかと思うと盛大に転げて熱々の茶がウリエンジェの顔面にかかってそこからほぼ全員てんやわんや……という出来事があった。その後それなりの真剣さで「俺のことは心配するな。少なくともあいつらの前ではするな」と釘を刺されてしまった。そういうわけで、あまり言葉にはしないように気をつけている。

「嫌だと感じたことはないです。乱暴な言い方かもしれませんが……わたしの渾名のひとつだと思うので」
「渾名か。恐れ入るな」
「あなたも同じなのではないかなと、思いますが」

 微笑んでそう言うと、ふ、と笑う呼吸から一拍おいて、控えめな声で「そうかもな」と返事がくる。どうして『恐れ入る』なのかはよくわからないが、気分が良いのであればそれでいいとニニシャは思う。
 イシュガルド、特に蒼天街を歩いていると、多くの住民たちが英雄さま、英雄さまと気さくに手を振ってくれる。蒼天街に住まう幼く愛らしき竜のエル・トゥも、ニニシャの名が『エイユウ』なのだと長らく思い込んでおり、本来の名前を知っても呼び方を変えないものだから、エル・トゥに懐いた近所の幼子に『えいゆう』と呼び捨てにされたこともあるほどだ。
 ニニシャは駆け出しの頃から『英雄』という言葉にかけらも重みを感じていなかった。それは一つの言葉に過ぎず、戦いを勝利に導いた者であれば英雄も悪魔も死神も殺人鬼もだいたい同義である。
 それに、誰かが英雄になるのなら誰もが英雄になれるはず、と常日頃から思っているからだ。
 だが、どうやら世間では自分の感覚の方が少数派であるようで、それはこれまでの旅を通して多少は理解したつもりだ。どこかで『英雄』と呼ばれた人がその重みに苦しんでいるのであれば、その苦しみが少しでも早く幸福に転じるように、とニニシャは常に願っている。

「そういえば男を見ていないが?」
「放牧だよ。男たちはヤクを運動させてる」

 その問いに答えたのは荷車を引いてきた夫人だった。戻ってきたヤクに食べさせるための牧草がうず高く積み上がっている。牧草とはいえここまで積み上げた荷車を運べるほどには、夫人も力持ちであった。手ぬぐいで軽く顔を拭いてから「そろそろ戻って来る頃だと思うんだけど……」と言う夫人の表情から、いつもより戻りが遅い、という思いが感じ取れた。いくら慣れた放牧でも、この寒さでは心配だ。様子を見に行こうかと言い出そうとした瞬間、隣のエスティニアンが立ち上がり、融雪剤の袋をニニシャの方に投げてよこした。

「見てくる。続きは任せた」
「はい」

 急に投げられた袋を難なく受け止め、ニニシャは頷く。この場は彼の方が適任であろう。夫人が「いいのかい? 何から何まで助かるよ」と言うのには背を向けたまま、軽く肩をすくめて応える。そうして彼は、坂道を降りていった。
 縁ある冒険者を呼んだら思わぬ男手がついてきたことについて、夫人はニニシャに感謝を述べた上で、どうして、と首を捻った。荷物持ちのために同行してもらったと伝えると、夫人はララフェル族が一人で牛乳缶を三つ運ぶのはかなり無茶であるとようやく気づいたようで、そういやそうだった、と笑いだし、しばらく腹を抱えていた。
「こんな風に、なにかに気づいて驚いて、それを笑えるようになったのもあんたのおかげだ」夫人はひとしきり笑った後、そう言って微笑んだ。ニニシャも頷いて笑みを返した。
 知らないことに気づくことは、長年イシュガルドの人々にとってはひどく恐ろしいものだったはずだ。それは、ほんの少しイシュガルドで暮らしたニニシャもわかっているつもりだ。気づきに笑顔が付随する今のイシュガルドの人々を見て、どうかそのままで、と祈りが胸にこみ上げる。
 微笑み合う二人は、少しの後に雪原に男たちの悲鳴が轟くことも、その理由が放牧中の男衆の目の前に突然『蒼の竜騎士様』が現れたからであることも、そして男衆の一人が驚きのあまり腰を抜かして背負われて帰ってくることも、腰を抜かした男性を背負いながら「だからこっちには来たくなかったんだ」と『竜騎士様』が言うことも、まだ知らない。

 

 

 子ヤクが母ヤクに寄り添う。男たちはヤクの住処を丁寧に掃除し、女たちはヤクの体の汚れを落としていく。ヤクの乳搾りは水牛や羊のそれに比べると作業の量が段違いで、集落をあげての大仕事になるようだ。採取した乳に汚れが混じらないように、皆細心の注意を払って掃除をしている。
 いくら竜詩戦争終結の立役者といっても、村の直接の収入源にかかわる細かな仕事は素人・・のニニシャの手には負えない。邪魔をしないように離れた場所に置かれたテーブルにつき、人々の作業を見つめる。ニニシャは落ち着かず、そわそわと小さな手のひらを握りしめたり開いたりした。搾りたてのミルクで作ったココアを飲ませてもらえると夫人に言われてしまえば、逸る気持ちを抑えるのは難しい。
 ちなみにエスティニアンはと言うと、ニニシャの隣の席でぐったりしている。集落の男衆にあれやこれやと世話を焼かれたり武勇伝をねだられたりしてすっかり疲れてしまったらしい。身にまとったコートの色がいつもよりくすんで見える。それでも嫌がらずに応じてしまう人の好さが彼にはあるし、一人で歩いていたはずの彼がいつの間にか人に囲まれている姿を見るのは気分がいい。妹弟子として胸を張りたくなる。
 そんなことを考えていたときだった。

「ねえ英雄さま、やってみない? ヤクの乳搾り」

 先ほどヨーグルトを食べさせてくれた女性がそう言って歩み寄ってきた。身につけているエプロンが変わっている。乳搾りのために着替えたようだ。
 ニニシャの口からええと、と声が漏れて、視線がふらふらとそこかしこを泳ぐ。せっかくの誘いではあるが、ニニシャは迷った。なんと言っても、この集落を作り上げるときも同様に、ヤクの乳搾り体験を勧められたのだ。そして――箸にも棒にもかからない結果に終わったのである。
 理由はただ一つ、手の大きさが足りなかったからだ。
 ニニシャ自身、今でもわからない。ヤクの巨体を前にして、なぜそれに気づかなかったのか。どう考えても、いや考えるまでもなく、手の大きさが足りないと、乳を絞るどころかヤクの乳頭を握ることもできないと、わかっていたはずだった。
 そんな過去を回想している間に女性はニニシャの小さな手をとり、あっという間に母ヤクの前に連れ出した。佇むヤクの真っ白な毛並みが光を反射してきらりと光る。きれいだな、と思った瞬間、大きくて黒い瞳と視線がかちあったような気がした。
 竜詩戦争が終結したばかりのあの頃の、そして、そこからこれまでの記憶が蘇る。

 アラミゴ奪還を成し遂げて。
 第八霊災を退けて。
 あの頃よりも、強くなったはずだ。

 ニニシャは母ヤクに一歩近づいた。
 驚かさないように、静かに後ろ足の間に潜り込む。
 息を吸って、吐いて、もう一度吸って、それからゆっくりと手を伸ばした。

 悲しいかな、やはりニニシャの掌は母ヤクの乳頭を掴むことすらできなかった。

 ニニシャを連れてきた女性はこの事態を全く予想できていなかったようで、目を丸くして、口をあんぐりと開けてぴたりと止まってしまった。彼女はヒューラン族だ。エレゼン族よりは手が小さいが、ララフェル族の手の大きさとは比べるまでもない。やはりイシュガルドで暮らしていると、ララフェル族のスケールでの生活は想像しにくいものらしい。
 背後から飛んできた「勝負にならんな」という呆れた声がとどめになり、ニニシャはついにかくり、と項垂れてしまった。眉もしおしおと下がっていく。今の自分は夜の訪れとともにしぼんでいくモーニング・グローリーのように見えるだろう。手塩にかけて育てた花や作物を感謝の祈りとともに収穫するのと同じように、ヤクの乳も手ずから絞りたい。そんなささやかな願いが儚く打ち砕かれるのをニニシャは感じた。
 しかし第八霊災を退けた――今それが関係あるのかはさておいて――今のニニシャは立ち直りも早い。いつまでもここでしおれていても周囲の邪魔になる。
 そう思い立ち上がろうとした時、背後の気配が動くのを感じた。エスティニアンはゆっくりと椅子から立ち上がりニニシャの隣に腰を下ろし、それから後ろに下がろうとするニニシャを視線で制した。いくら体の小さい自分でも流石に下がらなければ邪魔になるのではないか。ニニシャはその意図をはかりかね、小さく首を傾げた。

「よく見ていろ」

 エスティニアンは手袋を脱ぐと、ニニシャの手ごと母ヤクの乳頭を握り込んだ。親指と人差し指で付け根をしっかりと押さえ、中指から小指までを順に握りしめていく。ニニシャの手の甲に伝わる絶妙な力加減から、この作業に手慣れていることがよくわかった。そのまま手を下に引くと、真っ白なヤク乳が絞り出されていく。最初の一絞りを捨ててから、何度も力を入れて絞る。羊の乳搾りなら経験があるが、鉄のバケツに勢いよくヤク乳が注がれていく光景は羊のそれとは全く異なり、迫力がある。まるで高度な魔法のようだと思った。

「わあ……」

 ニニシャが思わず感嘆の声を漏らすと、頭上で静かな、笑う息遣いを感じた。それはこれまで感じたことのない、穏やかでやわらかなもので、ニニシャははっと息を呑んだ。
 もしかしたら、こんな日常がこの人の、遥か昔にあったのかもしれない。それはただの想像で、本当のことはニニシャには知る由もない。
 たとえ顔を合わせることがなくても、たとえ世界を隔てても。同じ戦場を、同じ光明みらいを目指して駆け抜けた。けれど、彼と共闘したことで積み上げられた絆の中に、彼の過去はほとんど組み込まれていない。ニニシャが産声をあげたと思しき時代に失われた彼の家族と、彼がどんな風に生きてきたのか、ニニシャは全く知らない。
 だが、わからなくても良かった。
 小さな自分の体をすっぽりと包み込んで覆い隠してしまう、大きくてとてもあたたかな気配。
 それは北から西から吹き付けて、肌を刺しては舞い上がる風のもたらす痛みを忘れてしまうほどで。
 そんな彼の優しさのお裾分けを貰ったことを、ニニシャは無性に嬉しく感じたのだった。

 

 

 一連の作業を終え、最後に夫人が搾りたてのミルクで作ったホットココアをいただき、二人は帰路についた。生涯口にすることはないと思っていた、自らの手で絞ったヤク乳のココア。ニニシャの手は添えているだけではあったが、どんな高級食材よりも美味に感じられたのは言うまでもない。

「たくさん運ばせてすみません」
「いいさ。体を動かしている方が気が楽なのはお前もだろう」

 ミルク缶を乗せた荷車を悠々と引きながらエスティニアンは答えた。報酬のミルク缶は結局、当初言われていた数の倍の六個を受け取った。遠慮したのだが、女性たちがこぞって「いいものを見せてもらったから」「これでもまだお釣りが来るわ」などと、にやつきながら荷車にどんどん缶を乗せるので、結局全てもらっていくこととなった次第だ。さらにチーズなどの食材も袋でどっさり受け取ってしまい、ニニシャはそれを両手で大事そうに抱えて歩いている。ニニシャだからこそ余裕を持って運べるが、一般市民のララフェル族女性では袋の重みに耐えられないかもしれない、そのくらいの量だ。
 女性たちの意味ありげな笑みも言葉の意味もニニシャにはとんと見当がつかなかったが、気にしないでとも言われたので言われた通り気にしないことにする。

「ありがとうございました。一緒に来てもらって」
「もう来たくないな」
「おつかれさまです」

 変わらぬ憎まれ口に笑みがこぼれる。疲れもさもありなん、エスティニアンは集落の人々にずっと囲まれていて、落ち着く時間はほとんどなかっただろう。帰るときなど、やけにご機嫌の女性たちに包囲されてそれはそれはうんざりした様子でいた。隅に置けないだとか、また見せつけに来いだとか、よくわからないことをひそひそと囁かれて、苦虫を噛み潰したような顔を見せた瞬間もあった。
 口をついて出る言葉のすべてが本心でないことをニニシャはよくわかっている。だから、蒼の竜騎士の名と位を返上した今でも、そう呼ばれて慕われるのだ。
 きっと、もう来たくないと言いながら、これから何度も彼はこの集落を訪れるのだろう。自分の知らないところで、いつの間にか。
 ニニシャは小走りに前に出ると、彼と向かい合った。風がやみ、雲が晴れていく。群青の空と純白の雪が混じって、空には淡い水色がみるみる広がってゆく。どうした、と怪訝な表情を浮かべた同じ色の瞳をまっすぐ見つめて、ニニシャは笑った。

「あなたが一緒で良かったです。エスティニアン」

 瞬間、彼がわずかに目を丸くしたのがわかった。なにか変なことを言っただろうか、と思っていると、彼はひとつ息をついてから目を伏せて、そうか、と呟いて、一拍おいてから顔を上げると、満更でもなさそうに笑みを浮かべた。

「戦士に笑顔は要らんと思っていたんだが。そうでもないな」
「?」
「……俺が乳搾りを手伝った話はするなよ」
「えっ」

 ニニシャはどうして、と少しだけ食い下がった。
 困っていた自分を手伝ってくれたことを皆に話せば、イシュガルドが誇る竜騎士の面目躍如となると思ったのだが。理由は答えてもらえず、しかし何度かにわたって念押しされた上に、

「頼んだぜ、相棒」

 と言われてしまうと頷かざるを得なかった。
 ニニシャは不思議に思ったが、エスティニアンが満足げな様子でいるので、それが一番良いことだとすぐに考え直して、モードゥナに向かう足を早めた。

 リバーズミートの雪原に残された大小ふたり分の足跡を、夕日が赤く染めはじめる。
 ホットココアのぬくもりが、まだニニシャの胸の中でぽかぽかと息づいていた。

 

 


2025年2月に開催されたwebオンリー「頭割りだョ!ヒカセン集合6」にて発表した作品です。

はたから見たらイチャついてる構図なのに、本人たちには一切その気がないやつが好きなので書きました!
竜詩戦争終結後のクルザスってゲーム上はどうしても変えられないけど、変わったところもあるんじゃないかな~と妄想を膨らませたりしました。
集落の女性たちに「竜騎士さまはストイックなお方と聞いてたけど意外と隅に置けないのね」などとニヤニヤされて「そういうのじゃない」って苦虫を噛み潰したような顔してるニャンさん永遠に見たい。そういうのばかり書いています。
読んでいただきありがとうございました!

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